1945年6月 当時大日本航空株式会社のシンガポールに勤務していた私達にも現地入隊の命令が降りマレー半島のタイピン第94師団通信隊に入隊、此処からタイ国のチュンポンまで行軍したが再び折り返してマレー半島の山中で終戦を迎えた文字通り二ヶ月間の日本陸軍最後の新兵でありました。
ジョホール州のクルアンで検問を受けた後 疲労困憊して辿り着いたシンガポール
から貨物船に乗せられて約半日、着いた所がインドネシヤ領の孤島、人跡未踏の
レンパン島であつた。
一時期十余万人の日本人を抑留した 別名「死の島」と言われた此処での生活は言語に絶する原始生活であり、飢えと病 それからまた 怪我に苦しみながらの一年間こそ生涯忘れる事が出来ない経験であり、 傘寿を迎えた2004年 意を決して思い出の地を訪ね今は亡き仲間達の冥福を祈ると共に 当時を回顧し平和な時代に慣れ、安逸に流れすぎている自分への反省も込めての訪問でありました。
血と汗と涙で開拓した農地や道路も半世紀を過ぎた現在では再びジャングルと化していたが四囲の島々や海岸端に群生するマングロープは昔の面影を留めており、また図らずも 其処に「日本人抑留記念碑」を見つけ、碑前に佇み暫し瞑目して感慨に耽りました。
好天に恵まれた朝7:45シンガポールのケツペル波止場を出港した高速艇はセントウサ島を左手に見ながら赤道に向かい南下して行く。
半世紀前同じケツペルから半日も掛けての航行が如何に高速艇とは云え僅か45分とは全く驚きである。
バタム島最北端の港セプパング、
此処から島伝いにガランバリュウに至る
島から島には立派な橋で繋がれている。然し自動車の通行は殆ど無い
橋脚の上から見たレンパン島とガラン島、島の緑とスカイブルーに輝く海の色は形容しがたい美しさである
ガラン島最南端の集落
ガラン島の水上レストラン
レンパン ガラン共 島を縦断する道路は有るが分岐する路は悪路で車は通行出来ない
レンパン島の現況。
痩せた土地には農作物も出来ない
小高い丘の中腹に佛教寺院があり観音像が建立されていた
ジャングルのなかにベトナム難民の収容所の廃屋がある
集まつて来た村人の案内で「日本人抑留記念碑」の有る事を知り、この地に眠る中間達に香をあげて冥福を祈る事が出来た
現地の村人たち
現地の村長さん夫人のもてなしを受け 資料も見せてもらつた。
二度と訪れる事が無いであろうレンパン、ガランの島々に別れを告げ、再びセクパング港をあとにしてシンガポール行きの高速艇に乗つた。
之で永年 夢にまで見た 大きな目標の達成感を味わつた。
Semblang【当時の呼び名南千武】近辺には民家もあり学校もあるという。此処から西 凡そ4〜5キロの処に我々抑留者が特に思いで深い「宝港」「千鳥港」がある。然し車が通行できる路が無く訪れる事が出来なかった。海岸端を散策するうちに出会った現地の人から日本人の記念碑がある事を知らされ早速其処を訪ね香をあげて冥福を祈る事が出来た。 半世紀が過ぎても四囲の島々の面影は変わらず、碑の前に佇めば当時の事が彷彿として甦り感慨無料で胸が熱くなった。
レンバン島