信濃古代の通史叙述をめぐって

福島正樹

はじめに

『長野県の歴史』(山川出版社刊)は、1997年3月に第1版第1刷が発刊された。この通史は、1992年(平成4年)に完結した『長野県史』(通史編)の成果をふまえ、最新の歴史情報を加えながら現段階での長野県の通史を簡潔、平易に叙述することを目的としている。

ここで、私は「第1章 信濃史のはじまり」、「第2章 信濃国のなりたち」を分担執筆した。実際の執筆は1996年から始まったが、その頃屋代遺跡群から古代の木簡が出土し、長野県埋蔵文化財センターの木簡に関する調査報告書が出版されたこともあり、古代の叙述にはその成果を可能な限り活用した。また、現在3刷となっているが、そのたびに出版社から誤記、誤字の訂正を求められた。そこで、その時点での可能な限りでの訂正を叙述内容にまで立ち入って行った。このことは、特段出版物の中に明記されていないため、各刷りで内容がどのように改訂されたかについて明記することが必要であると思われる。以下、各刷りごとの内容について説明を行っていきたい。

 

1 屋代木簡の成果と課題をめぐって

 古代の叙述における焦点は、執筆当時の最新の成果であった「屋代遺跡群」出土の木簡に関する叙述であった。当時、地方の遺跡から出土した木簡では最古の年紀(乙丑年=665年)を有する木簡について、年紀の書かれた面の裏面に「『他田舎人』古麻呂」とウジ名と名が記されていたこと。また、「信濃団」の文字が記された木簡があったこと。全国初めての「国符木簡」(信濃国司から更科郡司等に対する命令の木簡)が出土したことなどなど、全国的にも注目を集めた成果を叙述に反映させる必要があった。

 特に軍団関係の木簡については、第1刷で次のように叙述した。

 

「屋代木簡から明らかになった新たな事実のうち最も重要な点は、更級郡・埴科郡から構成される「信濃団」という軍団の存在が明らかになり、そこから律令制以前は更級・埴科地域は「科野評」と呼ばれていたと考えられることである。しかも、遺跡周辺には埴科郡家、さらには初期の科野の国府も想定されている。」

 

 ところが、屋代木簡の真空凍結乾燥法による保存処理が進み、水漬け状態では解読できなかった文字が解読可能になったり、釈文(解読文)に訂正すべき個所が出てきたりで、長野県埋蔵文化財センターに設けた検討委員会で再検討が行われた。その結果、「信濃団」と解読した部分は、「信濃国」と読み直すべきことが明らかになった(屋代木簡60号)。私も参加していた検討委員会で最初に確かに「信濃団」と読めたものが、全く異なる解釈を行わなければならなくなったのである。考古資料、特に木簡等の釈文について、慎重には慎重を期すべきことを身をもって体験した。

 このような経過から、第2刷では以下のように叙述を訂正し(下記の部分以外にも「信濃団」と記載した部分は削除するかまたは「軍団」とのみ記載した)、また掲載した木簡の写真も「乙丑年」の年紀を記載した木簡(屋代木簡46号)に差し替えたのである。

 

「屋代木簡から明らかになった新たな事実のうち最も重要な点は、この遺跡周辺に、埴科郡家があった可能性が指摘できるのみならず、軍団や初期の科野国府、さらには更級・埴科両郡の物資集積施設が存在した可能性がきわめて高いということである。」

 

 ここで、「軍団」と記したのは、「少毅」と記された木簡(屋代木簡12号)があり、埴科郡またはその周辺に軍団が存在したのは間違いないと考えられるからである。ちなみに、「信濃国」と読み替えられた木簡は、「8世紀はじめに、信濃国ないし更級郡で土地の調査が行われ、更級郡内の土地の名(地名)、面積およびその作料(賃租直米)を記した帳簿(木簡)」というものである(『長野市誌』第12巻資料編)。

 この「信濃団」問題は、これだけにとどまらない重要な論点を含んでいる。それは、軍団は基本的に郡単位に置かれていたと考えられていることから、「信濃団」が存在したのであれば、「信濃(科野)郡」が存在し、ひいては郡の前身である評に関しても「科野評」が存在したということになるからである。屋代木簡の報告書では、「讃信郡(更級郡)」「播信郡(埴科郡)」という郡の表記があることとあわせて「科野評」の存在を推定しているが、その徴証の一角が崩れたことになるのである。この点については、なお「科野評」の存在の可能性は完全になくなったわけではなく、仮説としては存在価値があるものと考え、叙述は残している。

 

 

2 いわゆる「阿蘇氏系図」をめぐって

 昭和31年(1956)、高千穂阿蘇総合学術調査団の一員として参加した田中卓氏が見出し、昭和35年(1960)に作成された報告書『高千穂・阿蘇』で発表した「古代阿蘇氏の一考察」の中で、氏が古代阿蘇氏の系図として評価した「阿蘇家略系譜」「異本阿蘇氏系図」「阿蘇系図」(阿蘇家所蔵)について、山川出版社刊の県史シリーズの旧版では、この阿蘇氏系図を用いて科野国造のは「多」氏であるとしていた。

その後、『長野県史』通史編原始古代(1989年刊)では、その正当性に疑問を挟み、古代史の史料としては用いないとして、科野国造のウジ名・カバネを「科野直」とする説を提起した。一方、『諏訪市史』上巻原始古代中世(1995年刊)では、井原今朝男「阿蘇氏系図の諸問題 〜諏訪・伊那地方と金刺舎人直氏について〜」(諏訪市史研究紀要3 1991年)に基づき、同系図には問題点もあるが、史実を反映した部分もあるのではないかとして用明朝における諏訪社社壇の成立が主張された。第1刷では、こうした動向をふまえ、「『阿蘇氏系図』のなかに史実を伝えている部分が存在する可能性は高い」と評価した。その後、村崎真智子「異本阿蘇氏系図試論」(国分直一博士米寿記念論文集『ヒト・モノ・コトバの人類学』1996年)が出され、この系図は、諏訪社宮司飯田武郷が文案を作り、中田憲信が系図としたと主張した。さらに阿蘇品保夫著『一の宮町史』自然と文化(1999年)が出され、偽作説は決定的になった。

第2刷の改訂時には、これらの論考の存在は承知してはいたが、「その史料的性格の厳密な分析が必要ではあるが、『阿蘇氏系図』のなかに史実を伝えている部分が存在する可能性も考慮すべきであろう」という不徹底な叙述にとどめてしまった。そのために42ページ及び50ページではなお「阿蘇氏系図」を用いた叙述を行っている。

この反省をふまえ、第3刷では、「なお、近年同系図は、幕末・明治の国学者で諏訪社宮司であった飯田武郷が文案をつくり、国学者中田憲信が作成したものとする説が発表された。全くの創作なのか、依拠すべき何らかの史料があったのかなど、その史料的性格の厳密な分析が必要ではあるが、現時点では歴史分析の史料としては用いることができないであろう」と訂正し、関連する叙述も訂正を加えた。

このように見てくると、結局『長野県史』通史編原始古代(1989年刊)での立場に立ち返って考え直すということになり、振り出しに戻った感がある。系図という慣れない史料の扱いには、これまた慎重な態度が求められるという当然のことを思い知らされた次第である。

 

このように、一般の方々向けに叙述した通史において、重大な訂正を行わなければならなかったことは、誠に遺憾なことであり、何らかの機会を得て、説明する必要があると考えている。

 

 

おわりに−研究成果の通史叙述への活用について

 もともと、古代史のしかも限られた分野を研究のフィールドとしている者にとって、原始から平安時代までの信濃の歴史を通史的に叙述するというのは多くの困難をともなうことは、執筆を引き受けた時から承知していたつもりであった。最新、最良の研究成果を叙述に反映させたいという思いが、第1刷から第3刷の間に多くの訂正をする背景にあった。その中には、単純な誤植も含まれているが、読者にはその事実が知らされないままになっている。

研究の進展にともなって、叙述内容に訂正が加えられるのはそれ自体は当然のように考えられるが、同じ書籍を一端購入した読者が、版を重ねるごとにその内容に訂正が加えられるというのも、問題があるように思う。せめて、改訂に関する月報のようなものをはさみ込むことが必要ではなかったか。

 今後も、特に発掘調査の成果などの面では、追加・訂正が必要な場面が多く出てくることが予想される。執筆者としての熱意を、読者に理解していただくためには、そのことを伝える方法を考えねばならないと考えている。

(2003年11月24日記す)

 

 

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