信濃史学会事業部 国府研究会 研究報告の中間報告

2005年3月 

 

信濃史学会事業部の取り組みとして2003年3月の例会にはじまった「国府研究会」は、それ以後会を重ね、徐々にではあるが研究成果を蓄積してきた。ここでは、中間報告として、これまでの研究会(例会)の概要をまとめておく。

 

2003年3月9日例会(松本市 あがたの森文化会館)

 倉澤正幸氏「「小県国府」をめぐる成果と課題」

 直井雅尚氏「「筑摩国府」をめぐる成果と課題」

 原 明芳氏 コメント

 倉澤報告は、「小県国府」比定候補地である信州大学繊維学部(下町田遺跡ほか)、東之手・西之手遺跡(1982年〜1986年に重要遺跡確認調査を実施した遺跡)、国分寺遺跡群(現在の国分寺周辺)の発掘調査の概要と、その中で国分寺遺跡群での道路状遺構の検出などから、現在の国分寺周辺に国府の所在した可能性が高いことを報告。

 直井報告は、198286年に重要遺跡確認調査が行われた里山辺地区での成果(国府に関わる遺構・遺物は何も見当たらなかった)と、それ以後の松本市内の緊急発掘調査の中から官衙的な遺構・遺物の発見された遺跡を紹介。今後の課題を提示した。

 原氏は、現状で県内で官衙遺構と言えるのは飯田市の「恒川遺跡群」、岡谷市の「榎垣内遺跡」くらいで、国府はもちろん郡家の遺構も明確でない。遺物についても県内各地区の遺物の年代の整理が必要で、特に8世紀前半の遺物が明確でない。松本に国府が移ったと言われる8世紀後半以降の国府の機能・組織の変化を念頭に置くと、ある程度広域に国府機能が分散していた可能性も視野に入れる必要があることなど、今後の課題についてコメントした。

 

2004年3月6日例会(松本市 あがたの森文化会館)

會田 進氏「岡谷市榎垣外遺跡をめぐる成果と課題」

福島正樹 「県史以後の古代史研究について」

會田報告は、さまざまな事情から現在にいたるまで正式な報告のなされていない岡谷市榎垣外遺跡の発掘成果について、二〇〇三年八月から整理作業が始まり、正式報告に向けた準備が整いつつある状況をふまえ、図面と写真をもとにその概要が報告された(諸般の事情から、予定していたスライド映写ができなかったことは残念である)。特に昭和五七年度調査の「スクモ地点(スクモ塚西北二百bの地点)」からは二間×十間以上の建物跡一基、二間×六間の建物跡一基(又は二間×三間の建物跡二基)などが出土した。共伴の土師器は七世紀代前半、八世紀以降の年代を示し、土師器の年代観に問題があるが、八世紀前半に存在した諏方国府や、諏方郡家などとの関係が推測される遺跡である。今年度も整理作業が続けられることから、引き続き当研究会としても協力していくことになった。

  福島報告は、「研究会参加者の現時点における問題関心を参加者に開陳し、問題意識を共有する」との趣旨(第一回研究会)から、一九八九年に刊行された『長野県史』通史編原始古代、以後の信濃古代史研究の流れを、戦前における動向までさかのぼって概観したものである。(報告レジュメはhttp://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/kenkyukai.htm参照)

 二報告について議論するなかで、「信濃国府」という言葉通りの内容の研究では、現段階で前進できる可能性は少ないから、研究会としてどのような切り口から研究成果をまとめるかについては、各の研究報告をするなかで引き続き検討することとなった。

 

2004年12月11日(松本市 あがたの森文化会館)研究会

原 明芳氏「筑摩国府をしぼる」

後藤芳孝氏「中世信濃における政治拠点の変遷」

  原報告は、直接的な資料のない筑摩国府の所在地に関して、発掘調査の成果からわかる集落の動きや開発の流れを追うなかで「しぼる」作業をおこなった。

  集落・開発の画期を、@6世紀後半まで、A7世紀第3四半期、B8世紀中頃、C九世紀後半から10世紀の4期に大別。@の時期は南松本・神田周辺に中心があり、Aの時期は奈良井川西岸に開発が入り、掘立柱建物が多用される。Bは田川流域に開発が入り、その様相は奈良井川西岸とは異質で、すでに古墳の築造はしない。この時期には南松本の勢力が衰える。Cは周辺地域に集落が広がる。これ以後の11世紀、12世紀の集落は発掘されていない。おそらく現在の集落の下にある可能性を考えるべきではないか。

その中で古墳時代以来一貫してつづく県町遺跡や、11世紀まで続く吉田川西遺跡などは特異な遺跡である。筑摩国府問題を考える上では、Bの画期、特に8世紀第2四半期が重要である。国府所在地候補の遺跡としては、県町遺跡、大村遺跡(大村廃寺跡)、とりわけ県町遺跡に注目すべき旨の報告であった。

  後藤報告は、平安末から戦国期までの信濃の政治的拠点(国府、国司居館、在庁、守護所、守護館)について、その変遷をたどったものである。以下、松本周辺の状況に絞って概要を記す。

  平安末から承久の変までは有力在庁の大内氏系統が押さえていた松本市北部の岡田・浅間あたりが中心であった。承久の変後、大内氏にかわり北条氏が勢力を伸ばしたが、これも浅間を中心の一つとした。

  南北朝期、国司は浅間に入った。守護小笠原氏は井川に館を構え拠点にした。深志には一族の坂西氏を配した。

  室町期には坂西氏の居館は深志城、そのまわりに町屋や市ができはじめた。室町期には松本近辺の地名として捧荘と深志が見える。この頃の捧荘は松本市街地南部を深志は市街地北部方面を指している可能性が高い。小笠原氏は井川から林へ拠点を移す。

  戦国期になると武田氏の侵攻を受け、深志が唯一の拠点になって現在の松本市街地へと続く街区の形成がなされた。

 

2005年3月5日例会(松本市中央公民館(Mウィング))

宮島義和氏「屋代遺跡群の官衙風建物群をどう捉えるか」

寺内隆夫氏 コメント

  宮島報告は、屋代遺跡群出土の乙丑年(665年)及び戊戌年(698年)の年紀を有する木簡の存在から、屋代遺跡群に国郡制(701年以降)以前の国評制ないしそれ以前の評制の時期の遺構、すなわち「評衙」の遺構が存在する可能性を指摘したものである。

  評衙の諸段階に関する山中敏史氏の研究や、近年の発掘調査の評衙に関する発掘調査の成果に依拠して、屋代遺跡群のC〜E区の遺構(掘立柱建物、竪穴建物など)の変遷を検討し、ST4201を中心とする遺構群が、山中氏の言う評衙の4段階のうちの第2段階(7世紀第V四半期)の「前期評衙」である可能性があること、豪族の居宅としての性格が強く、施設の分化がなされていないというこの時期の評衙の遺構の特徴を持っていること等を指摘した。

  さらに、これらの検討を踏まえた上で、屋代遺跡群出土の木製祭祀具や周辺の古墳群などの検討から、前期評衙以後、後期評衙から群衙さらには初期国府への展望を論じた。

  この報告に対し、屋代遺跡群の調査報告のとりまとめを担当した立場から寺内氏は、評衙の類型化の資料の数がまだ十分とは言えないこと、報告書では「官衙かどうか」という視点ではなく、集落の変遷に力点を置いて評価したことなどのコメントがあった。

(文責:事業部 福島正樹)